人生で一番悲しい日、そして考えさせられる日

日記の続きを書くのがすっかりご無沙汰してしまった。
毎年、GWの季節は分けあって英国へ出かけるので、留守中はどうしても日記が滞りがちになってしまう。もっとも・・・文明の利器を使えば、ノートパソコン等でどこからでもアクセスできるはずなのだが、どうもそういうことには疎いのと、そこまでしてやるべきか悩んでいるので、基本は留守中はお休み。。。とさせてもらっている。
さて、随分前の日記でもご紹介したが、私が猫を飼うきっかけとなり、また猫の子育てで随分参考にさせてもらっていた知人Jさん宅の老猫が亡くなった。老夫婦のお宅に15年も住んでいた家族の一員であった大きな黒猫のケイティが、ヨロヨロと足腰が弱りきちんと立てなくなってから5日目のことだった。様子が変だから・・・と言って病院へ連れて行き、毎日病院からの連絡は受けていたが、脱水状態なのと高齢も重なって、良くなる可能性は五分五分と言われていた。5日目の朝の電話では「弱ってはいるものの2日後には退院できる」と聞いていた。午後になってまた病院から電話があって「3度目の血液検査の結果、血液が水と赤血球に分離していて死を待つのは時間の問題だ」と知らされたJさんは、猫を苦しめたくないので安楽死させることを決心した。
その日は、Jさんにとって1年で一番大切な仕事の日で朝から大忙しだった。来客の接待からビジネスの商談まで、ほとんどひとりでこなさないといけない。多くの人がやってくる、その一番忙しい時間帯に病院からそういう連絡があったそうだ。仕事が一段落した夕方、Jさんのご主人のKさんががっくり肩を落としている。Jさんは特に変った様子もなく過ごしていたが、夜になって安楽死させたことを教えてくれた。
猫の亡き骸は、病院の手違いで2日後に自宅に戻ってきた。その日もとても忙しかったので、病院の人が遺体を運んできてすぐに庭に埋葬することになった。出来れば、もう少しだけ亡き骸と時間を過ごしたいと思う気持ちがあっても、周りの都合でそれもかなわず、お別れのキスをして既に掘って用意されていた穴に埋めた。なんとも複雑な気持ちの一日だった。
年老いた夫婦にとって、老猫の最期を見送る気持ちは、きっと自分の最期の状況と重なる思いだっただろう。また長く連れ添った家族の一員を亡くして本当につらい気持ちだったに違いない。。。でも、その一部始終に立ち会った私としては、長い間苦しめないための安楽死が本当に良かったのかどうか、考えてしまった。自分がJさんの立場なら死が目前に迫っている猫を自宅に連れ帰って来れただろうか?そして本当に自然に終わる最期を見届けてあげられただろうか・・・。
3年前、自分の猫ルナが死んだとき、状況からしてそんなに長くないことはわかっていたので、最後はちゃんと看取ってあげたいという思いが通じたのか、ルナは私の腕の中で息を引き取った。魂が消えてしまう瞬間の悲しさは、立ち会った人間にしかわからない心の痛みと無力さと自責の念でいっぱいだった。でも、こちらの悲しさ辛さよりも最期まで苦しんでいたルナにとっては、安楽死の道もあったのかと思うと、安楽死という選択肢を持っていなかった自分が、人間のエゴでルナの苦しむ日数を増やしてしまっていたかもしれない・・・と考えてしまった。どんな状態でもいいから一日でも多く生きていて欲しい・・・と願うのは、もしかしたら看病される側からしたら本当はあまり嬉しくない選択だったりするかもしれない・・・と、初めて思った。
Jさんの黒猫は「15年も生きたのだから、もう十分頑張ったよ」と言っていたかもしれない。

入院の直前まで元気にしていたケイティ
おしゃべり大好き♪ のすごく大きな黒猫さん